民族ナショナリズムと保守論壇の混迷に関する考察

※この記事は平成26年3月当時に投稿した記事になります。

 

民族ナショナリズムに関する考察を昨今のチャンネル桜に代表される保守論壇の混迷に絡めて、自分自身の考えを整理するために書き留めておこうと思います。そもそも私が保守論壇に疑問を持ち始めたのは一年前のTPP交渉参加に端を発します。この一年、安倍内閣はTPP交渉参加に加えて消費税増税や河野談話検証の撤回、移民政策推進等、保守派の期待を裏切る政策を推進しています。

 

私にとって一番違和感があるのは、民主党政権時に主張していた政策を尽く妥協し安倍政権断固指示の姿勢を貫く、チャンネル桜水島氏を中心とした保守論壇のブレっぷりです。その言動のブレは、TPP、増税、河野談話、移民政策の否定よりも安倍内閣の存立の方が大事であると言わざるを得ず、保守論壇は今後安倍内閣が続く限りあらゆる政策が妥協する事だろうと断じるしかありません。日本を主語とした保守を自称する水島氏は、もはや安倍を主語とした保守に成り果ててしまいました。

 

どうしてこうなった?とこの一年いろいろ考えてきた訳ですが、ここ最近は民族ナショナリズムの問題に集約できるのではないかと考えています。保守論壇のいわゆる「分断」は、思考の優先順位の違いで発生している事はすぐに分かったのですが、その本質はナショナリズムの性質の違いであるのではないでしょうか。

 

最近の保守論壇は「保守」という定義の縄張り争いの如く、我こそが本物の保守だと言わんばかりに、保守の理想像に終始している気がします。保守の思想があたかも一神教の教典の如く、ある一定の枠組みに収まるように理屈を積み重ねているような議論に、強い違和感を感じるのです。

そういう意味では、保守派がなぜ新自由主義に傾くかという疑問と合致してしまいます。つまり思考回路が欧米の一神教的で、日本的な思考とは一線を画すのではないかという疑いです。保守論壇の代表たるチャンネル桜水島氏の宗教観が天皇の存在に依存した明治以後の国体論に近い事を考えると、この疑いは理に適うのではないかと思います。

 

なぜ安倍内閣が新自由主義に傾倒し、その安倍内閣を保守論壇が追認してしまうのか?という疑問は、欧米の価値観を受け入れるか受け入れないかの違いに集約できるのではないでしょうか?私はこの違いについて、覇権国家的なナショナリズムと民族的なナショナリズムの衝突であり、欧米価値観に対する衝突であると考えています。新自由主義と帝国主義は表裏一体の思想であり、戦前回帰の意味で「戦後レジームの脱却」であれば新自由主義が「保守」である事に何ら矛盾は生じないのです。

 

しかし、私個人の感情としては新自由主義には反対です。その理由を私自身の心の問うと、単純な民族防衛本能に他ならず、自我としての民族ナショナリズムに起因すると思います。ただ日本人として日本人らしく生きていきたいという感情だけなのです。そもそも愛国心やナショナリズムとは強制されて発するものではなく、自分が自分として存在する自我(アイデンティティ)が根幹にあるのです。サッカー日本代表の応援を「国を愛するから」応援するのかといえば必ずしもそうでは無く、「自分が日本人であるから」という自我が基になっている事は、感覚的に納得できる例だと思います。

 

保守論壇にはこういった観点がスッポリ抜け落ちているのではないかと思います。保守論壇に自我から発する民族ナショナリズムが抜け落ちている理由を更に考えると、日本信仰に対する馴染みの深さに起因すると思います。靖国参拝を賛美しても、天皇陛下を賛美しても、欧米の一神教的な価値観とは違った日本信仰の特徴に馴染んでいないのではないでしょうか。この価値観の問題は明治維新以降からずっと日本人に課せられた問題であって、敗戦後のショックで特にその問題が押さえつけられてきた歴史を踏まえると、現在の団塊世代前後の世代で日本信仰に馴染みが薄いと言う特性も納得出来そうです。

 

よく保守論壇では「感情的になってはならない」という意見が大勢になる事が多いですが、私はこの意見には同意できません。人間の行動は必ずしも合理的ではなく感情に左右されるのが、生物としての人間の本質だからです。そういった意味で、保守思想とナショナリズム、そして日本近現代史を考える上で、日本人のアイデンティティから発露する心理的感情的な直感、即ち民族ナショナリズムを追求すべきなのではないか?と思います。

 

 

何だかうまくまとめきれないのですが、長々と失礼しました(´・ω・`)
この考察はfacebookとmy日本のアカウントの両方に上げておきます。(※平成28年現在はありません)